クラブの歴史 > 1.創立まで

1962年(昭和37年)、その頃はまだ日本に自動車レースもなかったし、 トヨタもー般的には実用本位のきわめて保守的な自動車を作るメーカーであった。 もちろん、それ以前にも日本にはモータースポーツの活動がなかったわけではなく、 戦後アメリカの進駐軍によりもち込まれたジムカーナやラリーなど基礎スポーツが、 SCCJ(日本スポーツカークラブ)とかNDC-tokyo(日本ダットサン クラブ東京)などを中心に行なわれ、 トヨタ車のユーザーによるTDK(トヨベット同好会)も車によるスポーツを楽しんでいた。 また、トヨタとしても、1957年(昭和32年)8月、 オーストラリアのいわゆる「豪州一周ラリー」にクラウン・デラックスを1台参加させ外国車3位に入賞、 翌33年にも3台参加したが入賞を逸したスポーツ・キャリアを持っていた。
だが、この日本のスポーツ事情も、本田技研かこの年に鈴鹿サーキットを建設してー変した。  翌1963年5月3日に「第1回日本グランプリ」を開催することになったからである。その頃はまだJAFもなく、 JASAという団体か主催をした。すべてのキッカケはここにあった。
それまでスポーツとはあまり緑のなかったトヨタも、 全国各地から集まるユーザーの参加希望者の声を無視するわけにはいかなくなった。 ウデに自信のあるユーザーが、クラウン(RS40)、コロナ(RT30)、 パプリカ(UP10)を引っ下げて鈴鹿サーキットで練習を開始したからだ。エンジンは吹き抜ける、 ホイールははずれるで、とにかくこの時からトヨタ軍も突然の苛酷なサーキットの洗札を受けることになった。 そこで、急拠何人かの選手を選び、車も強化された。


この応急作戦の結果、第1回日本GPは参加した全レースの総合優勝をトヨタは独占した。 クラウン、コロナ、パプリカ優勝の喜びに沸いたのも、今にしてみれば当クラブと無関係ではない。 つついて翌64年5月、やっと態勢が整ったJAFの主催で「第2回日本GP」が鈴鹿サーキソトで開催された。 第2回となれば第1回で遅れをとった他メーカーも一斉に力を入れだした。
日本のスポーツ史上、最大のメーカー合戦とさえいわれた年である。個人参加とはいえ、 各社ともグループを編成して、メーカー・チーム的な行動をとり、トレーニングを行なった。 トヨタも第1回GPの参加者を中心に、ドライバーおよびサポートのチームを作ってその日に備えた。
しかし、当時のブリンスの進出は目ざましく、後に名を残したスカGをはじめとして、 グロリア、スカイラインと著名2輪ライダーの起用で、この年トヨタ車はパプリカの完勝およびクラウン3位を除き惜敗を喫した。
しかし、レースには負けたが、この第2回日本GPに結集した”人”は残った。 まだしース・ドライバーを中心としたグループではあったが、「クラブを作ろう」という話になったのも当然の成りゆきである。 まだGP惜敗の熱分もさめない初夏であった。

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