クラブの歴史 > (A4) バンキン72C惜敗、GTRに凱歌

History of FUJI 1000Km
第4回:1970年7月26日

この年は、春のうちに日本GP中止というショッキングな事件があったため、前回のようなビッグ・プロトタイプ・マシンによる華かなレースは期待できなかった。しかし、国内にもようやく盛りあがってきたレーシング・マシンのコンストラクターが、それぞれのユニークなマシンを出場させて注目された。主なものを捨って見ると、田中弘/矢吹圭造のニットラAC7、今井一夫/鶴ヶ谷卓のサンデー・スペシャル、津々見友彦/早崎治のスズキ・バンキン72C、湧井昭/山下茂樹のRKIO1、高原敬武/道上佐堵史のワールドAC7、根本実/橋本分晴の桜花23型、渡辺一/解良喜久雄のコニリオ800などである。これらのマシンは、玉成までにはまだまだ遠いものも多かったが、プライベートの人たちが資金を出しあって、とにもかくにもレーシング・マシンを作りあげてレースに出場してきたということは、日本のレース界にとって大きな意義があった。クラブ関係者は、SCCNがダットサン・スポーツ240Z、SOHC6気筒、、2394㏄輸出仕様をレースに初登場させた。このほか、フェアレディZ432、プルーバードSSSといった陣容。 PMCSはもちろんスカイラインGTR、MSCCがロータリー・クーペ。これに対しTMSCはコロナ・マークIIGSS、カローラ・クーペ、トヨタ・スプりンター、パプリカSLという陣容でレースに臨んだ。決勝当日は、正午現在で気温29.8度C、湿度46%。真夏ながら、さっぱりと晴れ上がった陽気に2万6000人の大観衆が詰めかけた。エントラントも108台の多くを数え、日本GPの中止にもかかわらず、日本レース界の黄金時代を思わせる賑やかさそあった。スタートは予選を勝ち抜いてきた精鋭マシン50台、午前11時、恒例のル・マン式スタートでレースの幕を切った。上位入賞を期待されていた黒沢元治/高橋国光の240Zはエンジンかかからず、先頭集団がヘヤピンにさしかかった頃、ようやくスタートを切るといっハプニングはあったが、予想どおりニッサン勢の2台のZ432が3位以下をぶっちぎりでトップを先行、これにプロトタイプの軽量マシン、スズキ・バンキン72Cが追うという形をとった。ラップ・タイムぱ1分34秒台。正午には、スズキ・バンキン72Cがトップを奪い、レースも白熱の度を加えてきた。この頃から、各車の燃料補給もはじまる。12時7分、北野のスカイラインGTRがピットイン、燃料約78L、ドライバーを横山と交替してコースに戻る。その間約2分。つづいて砂子のスカイラインGTRが80Lを補給後長谷見と交替、スズキ・バンキン72Cも燃料70Lとオイル1Lを飲み込み、早崎と交替、約3分のピット作業である。耐久レースならではのピット・ワークも、各チームとも板につき、観戦のひとつの見どころともなっていた。午後1時、早崎の乗ったスズキ・バンキン72Cは、いぜんトップを走っている。すでに68周をマークしていた。が、ヘヤピンでスピンをやらかし、土手へ突っ込んでしまった。レースには復帰したが、すでにブロックを破損し、 2~3ラップしたところでリタイアの憂き目を見た。プライベート・プロトの初制覇は一瞬にして消えてしまったのだ。レースも終盤にきて、トップはズタートに失敗した高橋/黒沢のダットサン240Z。が、午後4時、最後のピット・ストップでハブ・ボルト破損が発見され、修理の間に、砂子/長谷見のGTRがトップを奪ってしまった。差は1周以上、高橋が飛ばしに飛ばして、225周目、ついに長谷見を抜いてそのままゴール・インした。タイムは6時間47分11秒57(平均147.630㎞/h)であった。また、このレースのエキジビションに、ターボチャージド・ニュー7が登場したことも忘れがたいことだった。

 

 

 

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