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1969年 日本CAN-AM Ti22 vsトヨタ7の死闘

7リッター・クラスのモンスター・マシンがズラリ顔をそろえたワールド・チャレンジカップ富士200マイルは、1968年につづいて69年も11月23日に開催された。日本CAN-AMと別名を取る同レースには、ローラT160、163、マクラーレンM12、M6B、フォードG7A、オートコーストTi22など、本場CAN-AM(カナディアン・アメリカン・チャレンジカップの略)でしのぎを削っているコンペティション・マシンがズラリ出場。特に軽くて丈夫なチタニウム合金を随所にふんだんに使ったオートコーストは、車重が620kgという身軽なマシンである。ドライバーも、前年度の覇者ピーター・レプソンを筆頭にチャック・パーソン、ローサー・モチェンバッハ、トニー・ディーン、ジョン・コルツ、ゲーリー・ウイルソン、ロジャー・マッキー、ジャッキー・オリバー、ジョン・キャノンの9名。対する日本勢は、4台の5リッター・トヨタ7(川合稔、鮒子田寛、細谷四方、久木留博之)、いすゞ7(浅岡重輝)、ロ一ラT160(安田銀治)、マクラーレンM12(酒井正、大石秀夫)、ポルシェ908(永松邦臣)の9名。午後1時30分、高くそびえるウイングをかかげた出走車が2台ずつに編隊を組んでローリング開始、決戦の幕は切っておとされた。スタートはトヨタ7の鮒子田と川合が早かった。ポールポジションを取ったオりバーのオートコーストを両側から一気に抜いて先行したのだ。4周まで川合がリード、が5周め、オリバーパーがトップを奪う。細谷と鮒子田のトヨタ7(鮒子田車はマクラーレン・シャーシ)は、7周以降、いずれもエンジン・トラブルで脱落。川合はオリバーを抜くためにあらゆるテクニックを駆使して迫るが、オリバーもさるもの、その座を明け渡さない。この2車の息詰まるデッドヒートは観衆を沸かせる。
しかし25周以降、オリバーは全力疾走にはいり、川合に5秒、そして35周には10秒以上の差をつけはじめた。7リッターのビッグ・エンジンを軽量ボディに載せたオートコーストは、その実力をいかんなく発揮してきたのである。ところが47周め、ヘヤピンを立ち上がったオートコーストが、1周遅れの久木留トヨタ7をラップせんとインにはいり込んだ時、不覚にも接触してしまったのだ。2車ともピットまでたどりついたものの、オートコーストは燃料系統のトラブルでリタイアの道をたどってしまったのである。いっぽう久木留車は、リヤシャフトを交換しピットアウト、その後モーレツな追い上げで3位にまで上がったが51周目、マシン・トラブルのため惜しくもリタイア。こうして待望の首位の座に躍り出た川合のトヨタ7は、快調なエキゾースト・ノ一トを響かせながら残りのラップを消化していく。レース開始後1時閲41分57秒90、75周をまわり切った川合のトヨタ7に優勝のチェッカード・フラッグが舞った。CAN-AMドライバーを向こうにまわしての堂どうの勝利だった。2位はフォードG7Aのジョン・キャノン、3位はマクラーレンM12のローサー・モチェンバッハである。

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