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≪1600GT強し≫

1968年、第1回日本GPが口火を切ってからちょうど5年目、モータースポーツは予想以上に育成きれた。 走る側も見る人もモータースポーツの楽しさかわかってきた頃である。 この年も1月の成人の日に行なわれた恒例の鈴鹿300kmからはじまり、 前年に市販された1600GTが高橋(利)の手でみごと優勝をさらった。 そして、3月の富士24時間レースでは高橋/大岩組の1600GTか総合3位、クラス優勝を果たした。 その後3月の全日本セダン・レースではまた高橋(利)、野依、小平の1600GTが上位独占、 続くクラブマン・しースでは高橋(晴)、大岩か1、2位。まさに1600GT強しの感かあった。そして名称を「68日本GP」とかえたグランプリでは、ついに、スカイライン2000 G Tを抜いて太岩、川合が1600GTで圧勝した。 そして年末にはこれらの成果により高橋利昭がツーリングカー選手権をものにした。いっぽう、この年はトヨタ7の誕生」の年でもある。 一年のブランクのうちに完成したV8・3リッターのしーシングカーは、5月のグランプリまでテストかつづけられていた。 しかし、本戦では日産の開発した5リソターのR381にリードされ、デビュ一戦は細谷が44周でエンジン・トラブル、 福沢が3 位のとき58周でサスペンション・トラブル、大坪が8位、鮒子田はタイヤ・バーストて9位にとどまった。 トヨタ初のグループ・セブンのレーシングカーに期待しただけにー同がっかりした。しかし、トヨタ7はその後熟成のために耐久レース参加を決定し、6月30日雨の鈴鹿1時間レースで早くも完勝、 7月21日のTMSC富士1000kmで優勝、 8月4日の鈴鹿12時間レ一スでは1、2位、8月25日の全日本鈴鹿にも特別参加して3位まで独占と目まぐるしく活躍し、 一気にGPの汚名を返上した。 そして、11月に開催された日本CAN-AMレースでは、 7リッターのビッグ・マシンを相手に善戦し総合で4、5、6、8、9位を獲得、耐久力の強さを実証した。また、この頃よ1りラリーも成績をあげはじめ、 岩下がカローラでツゥール・ド・ニッポンと東北ラリーに優勝したのをはじめ、 オートスポーツ・ラリーでは平田/戸村組が6位、アルペンでは戸村/平田/平沢組が7位を記録した。 いずれもカローラによるものである


 

≪マークⅡ、ラリーで大活躍≫

1969年、この年から日本GPは5月と10月の2回になった。恒例になった鈴鹿300kmは2台のトヨタ7、2台の1600GTで上位を独占して年が明けた。 そして4月の鈴鹿500km、富士クラブマン、7月のTMSC富士1000kmまで3リッタートヨタ7は活躍した。 しかし、この間に事故で福沢幸雄を失ったことはクラブにとっても悲しいことであった。5月のJAF・GPでは高橋晴邦が1600GTでクラス優勝し、大阪の桑原がスプリンターでクラス優勝している。 この頃は力ローラの出走もふえてきて、パプリカとともに絶好のレース人門車と考えられていた。 それを機会にクラブに入会した人も多かったのが目立つ。いずれも20歳を中心とした若いファイターたちだった。 後にレース部門をりードした鑓田、藤田、鈴木(恵)、岡田、佐藤(文)、下山など、この時期の入会者たちである
メンバーのプライベートカーが活躍している頃、自工では5.1リッタートヨタ7が進行していた。 10月10日のGPまでに再びニューマシンを調整するのに69年初秋は多忙だった。従来より洗練されたセブンではあったか、 イギリスのビック・エルフォードまで契約しての「69日本GP」はまたしても日産の6リッターR382にしてやられた。 今はなきシファードのポルシェ917まで参加したGPはけっきょく3、4、5位にとどまった。これに対し、11月に行なわれた日本CAN-AMでは再び7リッターに挑戦して川合か堂どうと優勝、 その実力は世界的に有名となった。GPのアダをCAN-AMで返すことか2年つづいたわけだ。レース界がこんな状況のあいだにラリーてはマークⅡGSLが活躍をしていた。 平田/平沢組のカールソン杯優勝はビッグ・ニュースたった。アルペンでも五十嵐兄弟がマークⅡで優勝した。1970年、この年、トヨタはターボ・チャージのトヨタ7を完成、GP連敗の汚名を挽回するチャンスに、 日産の引退声明、続くJAFのGP中止決定で舞台を失った。自動車産業はきびしい安全対策、排ガス低減に技術力を注ぐ、 という情勢にあった。したがって、事実上、 この年で日本のメーカー・チームの大型レーシング・プロジェクトは終わりを告げたわけである。しかし、いっぽうでは、GPカーの引退によりスポーツ界はふたたび市販車のしベルに戻り、 それがかえってTMSC会員のようなプライベートカーに活気を与えた。そのために、クラブでも会員の活動範囲別に、 レース、ラリー、オフィシャルの3部門を設け、専門担当者を中心に積極的に活動する方針にした。 これは会員の意思が運営委員会に反映することで成功を納めた。 車としてはJAF・GPをはじめパプリカ(KP31S)が大活躍の年であった。これ以外に速い車がなかったというのが実状である。 だが、この年の8月、ターボ・セブンでテスト中に川合稔が鈴鹿で池界した。 クラブの事務局を担当し、皆に親しまれていただけにみんなの悲しみは大きかった。この年の6月、第5回ツゥール・ド・ニッポン・ラリーで平田/平沢組かマークⅡGSSを駆り優勝、 あわせて平田、戸村、平沢、中島、小菅のTMSCメンバーかJMCラリー年間チヤンピオンに輝いている。

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