クラブの歴史 > (B2) 1967年富士24時間レース

’67富士24時間、劇的な3台編隊ゴール

漆黒の中を光芒が進る一一わが国初の24時間レースは、1967年4月7~8日の両日にわたって富士スピードウェイで開催された。延えん24時間にわたる耐久レースは、当時フランスのル・マンとアメリカのデイトナでしか行なわれておらず、富士24時間レースは世界でも3番めのものだった。午後4時、カテゴリーと排気量別に並べられた33台のマシンに向かってドライバーが一勢にダッシュ。スタートは2台のトヨタ2000GTが早かった。つづいてホンダS600、トヨタS800、シルビアの各車が富士スピードウェイのフルコースに飛び出していった。主だった出場車は、2台のトヨタ2000GT(細谷四方洋/大坪善男、津々見友彦/鮒子田寛)、4台のトヨタS800(北原豪彦/大岩湛癸、田村三夫/川合稔、高橋利昭/蟹江光正、斉藤好永/山口文)。これにフェアレディ、ベレットGT、スバル1000、ホンダS600、800、コンテッサ1300クーペ、プリンス2000GT、プルーバードSSの国産車、バリアント、ボクスホール・ビーバ、モーリス・ミニクーパーの外車勢が加わる。最終コーナーを立ち上がってきたトップ・グループは、やはり2台の2000GT。第2グループのトップはシルビア(西村俊男/金本光雄)で、ミニクーパー(川口吉正/松田次雄)、フェアレディ1600(佐藤一彦/土鰻郁夫)などがこれを追う。トヨタS800・2車(田村/川合、高橋/蟹江)とミニクーパー(伊能祥光/見崎満志)はこの後だ。周回を増すごとに2台のトヨタ2000GTは第2グループを引き離していく。田村/川合、高橋/蟹江、そして北原/大岩が加わった3台のトヨタS800も上昇中。だがスタート1時間後、北原/大岩のトヨタS800はエンジン・トラブルに見舞われ、S字コーナーでストップの憂きめに会う。陽が傾きかけるころ、富士特有のガスがジワジワとコースをはい出す。そして夜にはいって雨は本降りとなった。照明がほとんどない6㎞コースを、一条の光を残して各車が走り去る。
午前0時を過ぎ、細谷/大坪のトヨタ2000GTが燃料系統のトラブルでピットイン。この間、津々見/鮒子田のトヨタ2000GTがトッフに立った。しかし同車もワイパーのトラブルでピットヘ。12時間たった午前4時現在のポジションは、1位・トヨタ2000GT(細谷/大坪)、2位・トヨタ2000GT(津々見/鮒子田)、3位・トヨタS800(田村/川合)、4位・ベレット1600GT(若林完治/松田康史)、5位・フェアレディ(佐藤/土屋)、6位・ミニクーパー(伊能/見崎)霧雨の咋、5時すこし過ぎ夜は明けた。やがて6時を迎えるころ濃霧がコース全体を覆う。1~2位はいぜんとして2台のトヨタ2000GT。3位も田村/川合)のトヨタS800である。高橋/蟹江のトヨタS800は、エンジン・トラブルで1時間ピットにはいっている間に15位へ転落、だが追い上げてこのころには8位へと上がっている。長かった24時間も終盤に近づき、2台のトヨタ2000GTがこれまた2台のトヨタS800をしたがえ、ラップを重ねる。4台同時フィニッシュを狙ったものだろう。しかし、田村/川合のトヨタS800は最終ラップの数メートル手前で突然ダウン。けっきょく2台の2000GTが1台のS800をサンドイッチにした形でチェッカード・フラッグを受けたのである。優勝のトヨタ2000GT(細谷/大坪)が24時間で走破した距離は3234㎞、平均スピード134.75㎞/h。市販を前提とした2リッター・スポーツカーで、しかも霧と雨の中での記録だから称賛に値しよう。33台出走中、完走20台であった。

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