クラブの歴史 > (A1) ”亀”作戦、功を奏す
History of FUJI 1000Km
第1回:1967年7月9日
第1回富士1000㎞レースは、サーキットを覆う深い霧とドシャ降りの雨をついてのレースとなった。スリップやスピン事故が続発し、スピードウェイの各コーナー・サイドは、まるで”車の墓場”と化してしまった。出走台数は58台、規定の100周(600㎞)以上を走ったものは41台と、悪コンデションにしては各マシンともよく走った結果となったが、その中にも大物の脱落がかなりあったことが、このレースの苛酷さをまざまざと語っている。当時、世界の耐久レースの花形であったポルシェ・カレラ6の脱落もそうである。滝進太郎/酒井正で出場したポルシェ・カレラ6は、 15番目のスタート位置からスタート、猛烈なゴボー抜きを見せ、プライベート・チームながら50周目トヨタ2000GT勢につづいて3位、100周目にはついにトップに立つ健闘を見せていた。しかし、10周目ごろからのワイパー故障とレイン・タイヤの不備で、ついに116周目を終わったところでこの雨のレースを断念せざるを得なかった。「直線でも3速以上にアップできず、ちょっとでもアクセルを踏むと、すぐにホイール・スピンを起こしてしまう」と酒井選手は語っていたが、名車ポルシエ・カレラ6もスピードウェイの雨には勝てなかった。カレラ6の脱落で、優勝が確実とみられていた福沢幸雄/鮒子田寛のトヨタ2000GTにもハブニングが待っていた。1周目からトップを奪い、一時カレラ6にトップを譲ったものの、このマシンはまったく快調そのものだった。が、レースもあますところ13周というところで、S字カーブをのぼり切り、ショートカットと合流するところで激しくスピンを起こし、あっというまに左側のガード・レールを飛び越えて下の駐車場に転落してしまったのだ。 この時サーキットは、降りつづく豪雨と、すっぽりと覆った霧のために、トヨタ2000GTは、一瞬消えてしまったという表現がピッタリ、関係者を大いにあわてさせたが、ドライバーの福沢は軟弱な土手のおかげで無事だった。レースは、終始、福沢/鮒子田組とコンビを組んでいた細谷四方洋/大坪善男のトヨタ2000GTに凱歌があがったが、その大坪選手でも「直線でもかなりすべった」と洩らしていたほど、この日のスピードウェイの雨はドライバーを悩ませたものであった。また、スタート時点からトップ・グループにあって健闘していた浅岡重輝/高野光正のべレット1600GTも、この苛酷なレースにクランクシャフトを折損して、100周でレースを断念している。フィニッシュ時にコース上を走っていたのは、全出走車の半数あまりにすぎなかったが、結果から見て総合6位までにはいっている車の顔ぶれは、トヨタ2000GT、トヨタS800、スカイライン2000GT、ホンダS800、ベレット1600GTで耐久のトヨタ”の名はいやが上にも高まった。特筆ものは、総合2位となった高橋利昭/蟹江光正のトヨタS800(UP15)の活躍である。イエロー・フラッグ中の追い越しで、実際の周回数161周から3周のペナルティをマイナスされての総合2位はリッパというほかはない。このマシンはUP15の最終期のものであるが、軽量な小排気量車の利点を生かし、タイヤ・ノーチェンジ、燃料補給1回という徹底的な”亀”作戦がみごと効を奏しての好成績で、UP15の強烈な経済的マシンとしての性能を立証した。終始、雨と霧にたたられた第1回の富士1000㎞の記録は、結局、細谷/大坪の7時間49分19秒(平均129.197km/h)という長丁場のレースとなったが、 6位までに大排気量車をしのいで、800ccのマシンが2台も入賞するなど、耐久レースならではの面白さをファンに知らしめたレースであった。
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